2006年04月03日

初日はハラハラ…アパルトマンシネマ。


初めて花組の初日を観たのですが。
………みんな緊張しすぎではないですか??
なんだかハラハラしてしまいましたよ。DCの後半よりもよっぽどおぼつかなかった気が…。
主語を間違えている人が多すぎた…。
兄貴はいつでも優しい、と言い募るオーランドに向かって

それはお前が作り出したお前の仮面だ。

って大王まで!!
頼むよ…!ふつーに考えてわけわかんないじゃんよ…
いいんだけどね、私は春野寿美礼の発した音なら、たとえ間違った台詞すら愛しているから(病的)。

さすがにそんな初日はモノガタリに入り込むことは出来なかったので、客観的に物語の構築を追ってみた。

この先生は言葉で小さな伏線をたくさん張っていく、すごく小劇団っぽい(小さなハコに適した)作り方をする人だ。
5,6年前のナイロン100℃とか、今は亡き(涙)惑星ピスタチオだとかを思い出させる。
観客が、あるひとつの言葉や仕草から、登場人物のひととなりだったり歩んできた人生だったりを瞬時に想(妄)想し、観客それぞれが物語りに肉付けし、積み上げていく。
それによって観客の心の中で物語が厚くなり、深くなっていく、トリッキーな手法。

だから後半になればなるほど、前半部分を脳内同時上映しながら見ないと、前半で蒔かれていた種が収穫できない罠もある。

普通の宝塚公演みたいに、物語の起こす大きな波に乗ろうとして見ていると、乗り遅れる。
いつまで経っても波など来ないからな。
このタイプの作品は自分の中に波を作らなくてはならない。

ある意味、妄想力と想像力を試されているわけです。

たとえば、後半のふたりの述懐の時に、ふたりのエピソード(スタンとイザークの関係性だけではなく、ウルフとレオナード、殺し屋とターゲットという関係性も含め)を総動員しないとイマイチ心に染み入ってこない。
ウルフとアンナの恋の顛末も、ウルフとアンナの歩んできた人生(舞台上では交わされていないセリフや、エピソードも含め)を物凄い勢いで補完しないことには、抵抗を感じてしまうシーンもある。
補完のための材料は、きちんとちりばめられている。
でもそれは、本当に”原材料”的な、たった一つの言葉だったり、小さな仕草だったりする。

前のめりの小劇団好きの客ならともかく、宝塚の観客にそれを求めるのはちょっと難しいかもしれない。
だって宝塚の作品にはそういうものがないから(役者があれだけ多くて、しかもミュージカルとなると、こういう手法は自ずと取られなくなる)。
それに、こういう観方は、慣れも好みもあるからな。

手法としては、とっても漫画的。しかも少女漫画。
花ゆめとかぶ〜けとかの路線だよな。間違ってもりぼんやマーガレットではない。
りぼんの全国250万乙女は雑誌の発売日を心待ちにしてウキウキしていた。
一方花ゆめぶ〜けの全国150万乙女(そんなにいないかな?)は、雑誌も買った、コミックスも買った、イラスト集だって買っちゃう。あまつさえイラストを描いて投稿しちゃうぜ!というハマり方までちょっとコアでマニアック。
花ゆめぶ〜け系だよな、間違いなく。

でも漫画は字として残るし、コマのふとしたところに回想を簡単に挟めるけど、芝居は消えちゃうから、結構無謀な手法ではある。ただ、これが彼の個性というなら、このスタンスは変えて欲しくないな。
こういう演出家はいないんだもん。
まだまだ先のことだけど、大劇場公演の演出が本当に楽しみな作家。

……と難しいことを考えていたわけではなく、いつものよーにオイオイ泣いてたりしたんだけど。
全然客観的じゃないな。

posted by 海野モノトモ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | アパルトマンシネマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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