2006年09月14日

善と悪とは神が決めた先入観だ…ファントム

 

今日は私の誕生日(いきなり直球)。
自分のために誕生日観劇!と思ってファントムのチケットを取ったのですが、仕事が…仕事がどーしても終わらなくて…先輩が代わりに行きました…。彼女、東京公演は初めてだと言って、ルンルンで出て行きました。
どうして自分の誕生日なのに、他人にプレゼントしてるんだろ……。

しかも終演後、彼女から
「ヤバい!今日はヤバいよ!全然違う…!なんですかあれ…油断した…号泣!号泣〜!!」

というメールが来て(原文ママ)…私もハンカチをかみ締めて泣きましたよ…(違う意味でな)。

なので、帰宅後、宙組ファントムのDVDを見て代償行為。
とにかくファントムに触れていたかったのです。

にんげんの関係性としてやはり宙版は納得がいかないところが多々あるのですが、わおわおのエリックはいいなあ〜。
胸がつぶれるような壮絶さがある。まさに中二病をこじらせている…。
改めて見ると、大王エリックと全然違いますね。

なんというか、愛の種類の違い、というか。


『愛』という漢字は、明治時代に輸入されたのだそうです。
それまでやおよろずに神が宿ると信じられていた日本には、キリスト教のような唯一神信仰における『神の愛』という概念がなかったのだそうです。
日本において、ひとがひとに抱く切ない気持ちは『恋』であり『色』であり『欲』であり『情』だった。
それは“エロス”といわれるもので、『無償の慈しみ』をあらわす言葉がなかった。
だから最初に日本にキリスト教を伝道しに来た宣教師達は困った――神の愛(アガペー)をどうやって伝えればいいのか。

一番近い言葉を捜した結果、生み出したのが“お大切”と言う言葉だった。
大切なだけじゃなくて、さらに丁寧語がついちゃう――お大切。


昔に読んだそんな話を思い出してしまいました。

そう、宙版にはエロス、花版にはアガペーである気がした。
どちらが優れているとか、どちらが素晴らしいとかではなく、ただ種類が違う。

宙組ファントムのエロスは、まさに一対一の男女の愛。
わおわおのエリックは、醜い自分にどうしようもないほどコンプレックスを抱いて、孤独。
地下で暮らせざるを得ない、卑屈さがある(それが、ものすごい痛々しい肌触りでたまらん)。
地下に幽閉されているようなイメージ。
教養もある(森を造るっていう拙い手を使いそうには見えなかった…だから宙版を観た時は、本当に地下に森があるのかと思っていた)。地下を出ても、闇から闇へと生きて行けそうなたくましさすらある。
人間くさくて、ものすごい不安定で、その揺れがわおわおのエリックそのものなのかもしれない。
そして、揺れゆえにクリスティーヌを求め、苦悩し、それでも愛する。
カルロッタ殺害だって、愛ゆえだ。
狂気的な愛は、悪をも飲み込んでしまう。
で、残るのは愛なの。
改めて観て思った――まるっきり二人の世界だった。
わおわおのエリックはただ一途にクリスティーヌを愛し、クリスティーヌもエリックを愛していた。
父と母の物語は、添え物でしかなかったから、当時観た時に銀橋のシーンがとってつけたような印象があったのはそのせいかもしれない。
負の感情を前面に押し出す思春期おわりかけみたいなエリックは、ものすごい身近で、私たちの中に在るもの。
穢れている(というのは言い方は悪いけど、普通の人間と近い喜怒哀楽を持っている)から、私たちの身近にいて、だから彼の気持ちがとてもわかるし、人間くさい。
だから胸に響くんだと思う。

花組ファントムにはエロスではなく、無償の慈しみが漂っている。
幻想に閉じこもって、死んだ母親の面影に寄り添って生きていた純潔。世間から隔離されているから、世間にすれてない。
純粋培養されている。
地下は、彼を護るシェルターのようなイメージ。
大王のエリックはつるんとしていて無色透明だもの。
私がエリックに感情移入しきれないのは、多分私が穢れを纏っているからだと思う。
穢れている、というと御幣があるかもしれない。
いろいろな色がついて、いろいろな事象が刻まれているというか。
私にだってエリックみたいな心持ちだった時がきっとあるはずなんだけど、まる28年生きてきていろいろなことを知って、いろいろなことを考えて、無色透明だった時のことをもう感覚としてすら思い出すことができないから。
だから、穢れをまとったキャリエールに思う存分感情移入して、エリックを愛するのです。
エリックはカルロッタを殺害して、そのあと直ぐに、クリスティーヌに優しく微笑む。
それは狂気でも、悪でもなく、ただ純粋の前に善悪が無意味化しているだけ。

善と悪とは神が決めた先入観だ――サロメの一節だったかな(ちがうかも…何だろ)、それを思い出します。

神の先入観すらも寄せ付けないエリック。
ある意味人間的じゃない。でも、その純粋さは間違いなく人間の根本であり、起源である。

ほんと、驚くほど違った。
この作品ほど役者のニンの違いを楽しめたものはないなあと思う。

どちらが好きか、どちらも好きか。
そのひとそれぞれの生きてきた道や触れ合ってきた人や感じたことによるんだろうな。
同じ柑橘類だけどネーブルとグレープフルーツくらい違う。
どっちが好きかは好みの問題。両方観られて良かったなあと思った。

そして、私はこういうエリックの造形を選択し、それを為しえた大王を好きでよかったなあと思った。
で、大王のエリックが心にずしんと来る自分に、ちょっとほっとしてしまったりもする…そんな29歳初夜、自分の穢れをちょっと愛しく思う……。

日曜日まで会えないなんて…エリック……。

posted by 海野モノトモ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ファントム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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