2008年01月12日

ながい…『A-“R”ex』−如何にして大王アレクサンダーは世界の覇者たる道を邁進するに至ったか−


何が長いってタイトルが。
まあ三島ばりに「。」つけないよね荻田先生…。


というわけで、いってまいりました2008年タカラヅカ初観劇。
アレックスであります。

 



せなじゅんのくちびるがヌーディーカラーでキラキラしてた。
ほほほーう(前のめり)って感じ。

賢いがもろい、というアレックスはせなじゅんそのものであるような気がします。
確執や愛憎から目をそむけ、戦うことで自分のこころに目隠しをするアレックスは強くて弱い。
そしてせなじゅんのバックシャンぶりにビックリしました。

大王の背中には孤高が漂う(せかいいち雄弁な背中を持っているもの。本気だもの!)。
わたるさんの背中は護る背中。
そしてせなじゅんの背中は戦う背中なのだなあと思いました。

片翼のニケ像が動き出したような勝利の女神・ニケ。
勝利の女神は美しい声で皆殺し賛歌(と命名)を歌う。
あやのかなみちゃんがあまりにきよらかで、だからこそいのちを奪う形での勝利をつかさどるのだと納得させられました。


アレックスの死後ロクサーヌが殺される、って聞いてしょんぼりしましたが、舞台のふたりは手をつないで歩いていったから、別々に死んだ彼らはきっと彼岸で再会できたにちがいない。
そうであってほしいなあ。

どうでもいいけど、グレーのケープマントに見覚えが…。
同行者に「すみれちんのエリックがオーディションを盗み見しに行った時に着てたよね!」と言ったら「…エリックのはもっと粗末だった」と一蹴されました。
不憫だよエリック…(実際、エリックのには刺繍が入ってなかったのでまるっきり別物です)。

 
そうそう噂の冒頭の韻踏みソング、じつは楽しみにしていたのですが…


シャンプー(だったっけ?)ならlux


……て、いきなり韻ふんでねえ…!
“ex”部分を踏襲するのが韻を踏むことになると思いますが、“x”だけじゃ…なんつーかそれダジャレだよ…
マトリックスもワックスもスラックスも何もかも踏んでねえ。

ダジャレに笑うところだったのかなあ。
あと、モヒカンのひとすごかった。

 

早々に切り上げまして、以下、荻田先生への悪口です。
まじ悪口ですので反転しときます。

感想は人それぞれなので、あくまでわたしの意見ということです。
だってわたし荻田先生を見損なったんだもん。

カルシウムが足りてない心の狭い人のヒトリゴトですが、吐き出さないと…脳みそ沸騰しそうなもので。
 
 


荻田先生はいま、迷っているのか、いじけているのかどっちかなんじゃないだろうかね…と思ってしまうほど、この作品には“荻田先生”が前面に出ていた。
大きなおなかで舞台が見えないよ!
ってくらい。

今回、エピソードがほとんどない(会話ばかり)。
そして、観客の感情移入を故意に妨げる仕掛けが随所にしてある。

もともと私は物語に耽溺したいタイプなので、イラッとしました。

自分のすべてを消したい。
自分でないものになりたい。

それが私にとって芝居を観ることなので。
それを真っ向から拒否されたら楽しむべくもないのであります。

しかも一生懸命観て、物語から何かを得ようとしていたときに、ラストのアテナの独白でテーマを端的に伝えられてしまって腰が砕けそうになりました…
それだけ聞ければ観なくてもわかったのに…(タランテラでも同じようなことしてましたねそういえば。いっぽくんが貧乏くじ引かされてた…)


まず登場人物が歴史歴史と口にするのがカンにさわりました。


登場人物が自分を歴史の一部(歴史の一部)と捉えている。
すべての人物が自分を“役者”と捉え、舞台の上で“役者”と“役”を行き来する。


そういう描き方がうまく機能してなくてイラっとしました…
それって役者に役を一生懸命生きさせないことだと思う(感情移入防御壁そのいち)。
そして、役そのものにの舞台に描かれた“世界”を一生懸命生きさせないことだと思う。

舞台上でハレ(役)とケ(役者)をいったりきたりする形は割と古くからある諸刃の剣の表現法ですが、今回は脚本家の方がサックリ切れたな…
完璧に裏目に出ちゃいましたね…芝居に集中してない役者が舞台上をうろうろしてるみたいだった。
芝居に集中してない役者の芝居なんて見たくない。
本当は出演者たちは間違いなく集中していたのに、脚本があれではそう見えざるを得ないというか…。

ふたつの世界が交錯する舞台はうまくいけばカタルシスも2乗だというのに(メタルマクベスとかは成功例だと思った)。
客どころか役者すらないがしろにする脚本だったと思いました。


脚本と歴史を重ね合わせて描こうとしていたのはわかりましたが、そもそもそれはそのまま重ね合わせるべきものなのか。

歴史に名を残すには理由がある。
その時代を一生懸命生きてきておおきなことを成した人が歴史に残るのだと思う。
その人はそのひとにとっての“今”を必死に生きたからこそ、後世に残るわけで。

歴史を“歴史”と認識している歴史上の人物にどんな魅力があるのでしょうかね…
役者が演じていると認識している“役”にどんな魅力があるのだろう。


それこそ“歴史の教科書”みたいだった。
教科書は感情移入させようとして描いていない。歴史に刻まれた人々はあまりに遠く、あまりに他人だ。

したがって今回の脚本は登場人物がとにかく遠い。
みんな歴史書の中に閉じ込められたまま。
両親との確執、愛憎、戦うこと、そして生きるということすらも、感動のはるか彼方にありました。

彼らが“生きて”いたら、どんなにか心を打っただろう。


そして、その代わりに荻田先生が近い(大きなおなかでみえないよ、と)。
おなかっていうか、先生の不平不満って言うか。

「俺のことは誰もわかってくれないんだよなーアレックスもそうだったみたいだけど。やっぱ天才って孤独だよなー」

みたいな?
ひとりごとっていうかグチを延々と聞かされたような不快感は、先生が“伝える”という作業を忘れたせいなのではと思いました。

エンターテイメントをなんだと思ってるのかな荻田先生は。

受け取り手に何を伝えるか。
受け取り手をどんな気持ちにさせるか。
受け取り手は千差万別なのですべての人に受け入れられるのは無理だけど、どれだけ多くの人の心を大きく動かせるか。

ひとびとは心を動かしてほしくて、金を払う。
それがエンターテイメントだと思う。


先生は、自分が宝塚を好きで宝塚の演出家になったことを思い出したほうがいいと思う。

宝塚っぽくないのが悪いわけではありません。
やはり宝塚とはいえ前に進まねばならないわけで、“宝塚っぽくないもの”をやることを常に挑戦していかねばならないと思います。
ただ、それと観客に伝わらないものを作るということとは違うと思う。

自分の鬱憤を晴らしたいなら、渋谷でメガホン持って叫んで来い。
役者や客を犠牲する資格は脚本家にはないのだ。

荻田先生はこういう意見を聞いたら「どうせ分かってもらえない」と思うかもしれないけど、だったらひとりでもおおくのひとのこころを動かす努力を怠るな…


とにかく、タカラヅカの観客だからどーせわからないかもしれないけどね、という逆説的な甘えが垣間見えることにとにかくイライラしました。
客と役者をないがしろにするなー!


あーもうすっきりしたすっきりした!
3時間くらいかかっちゃった。


マラケシュの頃の、圧倒的な筆力と世界構築力で“物語”を描く荻田先生に戻ってほしい…
次回作の雪組(だっけ?)ではいい方に転がりますように。


せんせいは滝にでも打たれてくるといいよ。

posted by 海野モノトモ at 05:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 月組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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